校章
概要
有田市立 糸我小学校
有田ミカンの里、有田市の東に位置する学校です。
万葉集で「足代過ぎて、糸鹿の山の桜花、 散らずあらなむ、帰り来るまで」と詠まれています。
沿革
明治 9年12月21日 | 本校の創立 |
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明治19年 4月 | 保田小学校の分校となる |
明治27年 5月 | 木造校舎完成費用524円 |
大正 4年 5月 | 校旗作る校歌作る |
昭和22年 4月 | 糸我国民学校から糸我小学校と改称 |
昭和28年 7月 | 有田川大水害、沖・真砂・地蔵堂の一部を除いて全村浸水 |
昭和42年 7月 | プール完成 |
昭和45年 | 現在の校舎完成 |
昭和46年 4月 | 屋内体育館完成 |
昭和51年 9月 | 創立100周年記念式典行う |
昭和52年 4月 | 給食室完成 |
昭和62年 3月 | 特別教室完成 |
平成22年 8月 | 校舎耐震化 |
平成23年 8月 | 体育館耐震化 |
平成25年 8月 | 体育館大改修 |
平成28年 8月 | 全教室にエアコン完備 |
地域の紹介
有田公園
天正年間に糸我の地蔵堂の伊藤孫右ヱ門が肥後の国八代より新品種のみかんの苗木二本を持ち帰り、一本は上司に献上し、一本は自分の畑に植え丹精こめて育てました。それが有田地方に植えつがれ紀州の特産物になりました。今、糸我の地蔵堂にある有田公園の中に伊藤孫ヱ門の功績をたたえる記念碑が建てられています。
熊野古道
昔の人たちが熊野へお参りした道。糸我小学校の東側を通っている道のつじに、古い道しるべの石碑があります。この石碑には「すく熊のへ」と書かれています。この道は1000年も前から、上皇(天皇のくらいをしりぞいた人)などが、大勢のおともの人たちを連れて、熊野神社にお参りしました。
糸我稲荷神社
三本の楠の大木があります。樹齢500年以上、見る人によっては800年以上と言われています。平成5年有田市から天然記念物として指定を受けました。上皇方が熊野三山へ参拝される途中先ず稲荷神社で奉幣され次いで糸我王子に詣られました。
得生寺(中将姫)
むかし、奈良に都があったころの話です。藤原豊成夫婦は、子供ができないので長谷寺の観音様に願をかけて、かわいい女の子をさずかりました。女の子は琴が上手だったので、のちに中将姫とよばれるようになりました。その子が五才の時、母親が突然死んでしまい、父はまもなく後妻をむかえました。ところが男の子が生まれると、後妻は先妻の子をにくむようになり、娘に毒酒を飲まそうとして、あやまって自分の生んだ男の子を死なせてしまいました。憎しみがつのった後妻は、父親の留守の間に娘を殺そうとたくらみ、家来の伊藤春時に、娘を山中に連れ出して殺すように言いつけました。春時は中将姫が一心にお経をとなえる姿を見て、どうしても首を切ることができませんでした。春時(のち出家して得生)はすぐに中将姫の隠れている有田のひばり山に引きかえし、妻と二人でお世話をすることにしました。 事情を知らない父親は、ある日狩りに出て、山奥に住んでいた自分の娘と再会しました。父は娘を奈良に連れて帰ると後妻はびっくりして自分のしたことを恥じ、池に飛び込んで死んでしまいました。 自分のためにたくさんの人が死んだので、娘は当麻寺に入って尼さんになり、仏に仕えました。そんなある夜、仏さまの化身が現れて、娘に曼荼羅の織り方を教えてくれました。一晩で織りあげたその曼荼羅には、死んだのちの世界、浄土のようすがきれいに描かれていました。娘は二十九才の春、浄土から二十五菩薩のお迎えを得て、極楽往生したということです。